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デザインの倫理/『デザインと犯罪』

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Hal Foster, Design and Crime(and Other Diatribes), Verso, 2003 |

五十嵐光二
〈デザイン〉とはマスターキーである。現在あらゆる領域においてデザイン以上に歓迎されるものもない。魔術めいた呪文で一攫千金への扉が開かれる寓話よろしく、デザインの一声であらゆるジャンルが開かれ、資本の流れが呼び込まれる。プロダクト/ヴィジュアル/環境といった狭義の分類を超えて、建築や都市からやウェブまで、ファッションから食品や医療まで、いまや生活のあらゆる局面がデザインの対象である。すなわち、デザインはわれわれの生そのものをトータルに貫く原理なのだ。しかし、この暮らしに横溢するデザイン、トータルに〈デザインされた生〉とはそれほどに多様で豊かなのだろうか?
「われわれが生きているのはいま一つの時代―規律=専門化された領域が不分明になった時代、物が小さな主体として扱われる時代、トータルなデザインの時代、〈2000年様式〉の時代である」。新たなミレニアムを迎えんとする世紀転換期に澎湃として生じた〈世紀末芸術〉(アール・ヌーヴォー、1900年様式)のリヴァイヴァルに際して、美術批評家ハル・フォスターは著書『デザインと犯罪』にこのような直観を書きつけている。フォスターが現代に見取っているのは、トータルなデザイン世界の到来であるが、しかしそれは〈総合芸術〉のさかしまな完成としてなのだ。オペラにおいて諸ジャンル・諸メディアの総合を構想したリヒャルト・ヴァーグナーに発し、モダンな理念と実践を伴った教育的なプログラムとしてバウハウスにおいて展開されたこの〈総合芸術〉の概念は、現代のデザイン文化においてはスペクタクルな演出を行う文化産業によって、いわば〈モダニズムの悪夢〉として実現されている。「われわれの時代におけるこの[アートと生との]倒錯的な融和の主たる形式がデザインなのだ」。このような一節が読まれるフォスターのエッセイがそのタイトルを、19世紀末〈装飾の都〉ウィーンに猖獗をきわめた装飾ブームにおける野放図な表現(=欲望の表出)を〈犯罪〉と断じた建築家アドルフ・ロースの名高い論説「装飾と犯罪」に負う以上、この両者を結びつけている文化批評のラインに沿って、われわれは現在の〈デザインされた生〉がそのトータリティにおいて致命的に欠落させているものを考えてみる必要もあるだろう。
現代のデザインはアートと生を商業への包摂において結びつける。それは個人のアイデンティティをブランド化することによってである。事実われわれのデザイン文化において顕著なのは、あらゆる分野におけるデザイナー・ブランド化の進行である(美容師、料理人、教育家、読者モデル、医師、弁護士、DJ、占い師、キュレーター等々、日々メディアを賑わすこれら〈カリスマ〉や〈セレブ〉たちによる〈プロデュース〉もその一環にほかならないが、近年ブームの〈狭小住宅〉や〈リフォーム〉の主役たる〈建築デザイナー〉なる人種の登場も、いよいよ建築さえもブランド化しつある証左だろう)。合併吸収とフランチャイズ化の趨勢のもと、企業はデザインによって〈ブランド資産〉を増大させることに余念がなく、個人はブランドの消費という実践において消費者−市民としての実存が与えられる。
《われ買い物する、ゆえにわれ在り(I shop therefore I am)》とは、バーバラ・クルーガーの有名なフォトコラ
ージュだが、およそ20年前に左翼フェミニズム的コンテクストの中で制作されたこの作品において、消費社会に対する警鐘として鳴り響いていた批評性こそ、現代のデザインにおいて著しく希薄化してしまったものにちがいない。この作品が美術市場において異例の高値をつけ、その複製がプリントされたポップなグッズが溢れる今日の状況が示すように、モダニズムの初期からあらゆる歴史的アヴァンギャルドを取り込んできた消費主義は、批判さえもただちに市場経済のうちに回収してしまう(疎外論的な構図に基づいて生産と消費のオルタナティヴな形態をつくりだそうという試みが―〈サンプリング/カットアップ/リミックス〉や〈流用〉などの手段を通じた抵抗も含め――無効化するゆえんである)。実際、デザインの独立性(デザインの資本からの解放/デザインによる解放)を説く主張が、素朴な信憑――モダニズムにおけるユートピアの挫折とポストモダニズムにおける侵犯のゲームの飽和を経た後でもそれが可能だろうか?――でなければ、それ自体デザインの資産価値を高めようとする戦略としてしかありえないまでに、われわれの社会において文化とマーケティングは一体化しているだろう。
フォスターによれば、今日のデザインにおけるそのような状況は現在起きている経済上の根底的な変動に深く関係している。近年のIT革命によってデジタル化とコンピューティングを中心とする経済の仕組みの再編成が進みつつあり、そこでの生産物はもはや物ではなくデータなのである。このデータが経済活動の焦点としてデザインされ消費される。このような〈経済の媒介=メディア化〉は従来の産業構造を転倒させ(「デザインはもはや第二次産業ではない」)、ポスト工業社会におけるデザインと消費の累進的なプロセスが〈デザインのインフレーション〉をもたらしている。ゆえに必要なのが〈デザインの政治経済学〉だとフォスターは言う。
社会は氾濫するデザインによって埋め尽くされる。このようなデザイン世界のモデルは、デザインという価値に媒介された物品が果てしなく並ぶ〈巨大ショッピング・モール〉だ。そこで個人がアイデンティティ構築のためにサンプリングする商品は、マス・プロダクトでありながらパーソナルにカスタマイズされたものとして現れる。そのような操作を行うことが現在のデザインの存在理由である。デザインは個人にカスタマイズされた情報として欲望を特定する―これがアナタの欲望する物、すなわちこれが小さなアナタなのだと。マーケティングの論理に基づくこのような欲望の囲い込み、商品=〈小さなワタシ〉の不断のプロファイリングが現代のデザインを駆動している――欲望を商品へと回付するために人間の感覚を編成するロジスティクスとしてのデザイン。
そのように、デザインはたしかに欲望に関わる。しかし現代のデザインが市場経済のシステムに組み入れるこの欲望には主体がない。空間恐怖の装飾衝動によって所有者の個性の刻印たる物品に埋め尽くされた19世紀末のアール・ヌーヴォーの室内にも似て、デザインが支配するこのナルシスティックな空間は主体化の契機を欠く。すなわちトータルにデザインされた生とは、すべての物が個人的な理想を映すイメージとしてたち現れることで、想像的同化を通じて主体をその消失へと導くのだ。
メガストアにおいてデザインは商品と空間を融合させる。このオーヴァーオールな商品世界は歴史のない商品の夢の空間、〈終わってしまった〉世界である。かつて記号化した物の過剰な消費について語ったボードリヤールは、また別のところで消費大国アメリカという〈現実化したユートピア〉における危機が〈持続と不変性〉であることを指摘していなかっただろうか。主体なき欲望が〈小さなワタシ〉をもとめて陳列棚の間を循環させられるこのメガストアには、差異も境界もなく、主体が折り込まれる内面=内部もない。
まさにその点において、ロースの装飾批判への参照が求められよう。外観から一切の装飾を排除する一方で室内を独自の空間計画空間計画なる建築手法によってインティメイトに空間化するロースが行おうとしたのは、正しく欲望するための内部/外部の分節であったのだから。ロースによる装飾の断罪は、モダン・スタイルのドグマティックな排他性に拠るのではない。むしろそれはその〈ダンディズムの法〉(田中純)に基づくのである。なるほどダンディズムとは、そこに近代における英雄性や寓意的形象を見たボードレールやベンヤミンに示されるように、自己に対する自己の関係を美学として生きるすぐれて倫理的な身体の技法であっただろう。
フォスターはデザインに関するみずからの省察のテストケースとして現代デザインの寵児たる高名なデザイナー、ブルース・マウを召喚している。その著作のタイトル『生活様式』についてほのめかされるように、現在この語句の支配的な使用が、〈デザインされた生〉を消費主義の回路の中に引き入れるために人格に与えられる〈装飾様式〉(このようなライフ・スタイルは任意に交換可能な消費される商品だ)の謂いとしてならば、この語句にその本来意味するもの、ニーチェ=フーコー的な意味での〈生の様式〉を呼び戻すことこそ必要とされるものだろう。すなわち〈生存の技法・美学〉に関わる倫理的問いをデザインに回復することである。
今となっては地に落ちた〈美的自律〉の観念に賭けられていたモダニズムの倫理的な問いの試みを、同じ形で反復することは不可能だろう。しかし、ディシプリンが不分明になった今日の状況においては、あらゆる領域を貫通する資本と情報の流れに沿って、デザインはポストヒューマンな欲望を市場経済のシステムに組み込みながら、そのさらなる加速化を助長しており、デザインのインフレーションはやむ気配もない。このような危機に無自覚のまま、デザインの支配を謳い上げる無邪気な称揚―資本によって絶えず周縁を脱領土化し、限界を持たないデザインの〈帝国〉を寿ぐ新保守主義的な思想であることに無自覚であるまでの無邪気さ―に対しては、現代というこの〈トータルなデザインの時代〉にあってわれわれはフォスターとともに、〈生存の技法〉、正しく欲望する技法へとむけて、デザインの論理/倫理を剔抉するという意味でのデザイン批判の反時代性にとどまる必要があるのだ。

■五十嵐光二■
1968年生まれ。著書=『20世紀建築研究」(INAX出版、共著)。論文=「路上の身体―ル・コルビュジエと都市計画の成立」「大地なき時代の光学」など。
※編集部注:ハル・フォスター『デザインと犯罪』は氏の翻訳で平凡社から近く刊行の予定。
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